塀の向こうの異空間

 昨日、コントラバスの修理をお願いするため、いつもお世話になっている楽器店『ミズノ弦楽器【バイオリン・ビオラ・チェロ・バス販売店】』に伺ってきました。楽器の表板中央の継ぎ目がよく剥がれてしまうので、これまでにも同じ修理を何度か経験しています。楽器が我が家の環境に慣れるまでの現象だと思いたいですが…、私の管理も悪いのかな、と少し反省もしています。

 幸い今回も修理は一週間で完了するそうなので、来週には楽器は帰ってきます。というか、またお店に行って受け取ってくることになります。自宅からお店までは車で片道2時間。往復で4時間のドライブとなると、最近以前ほど車を使わなくなった私にとっては結構なロングドライブです。
 これまでお店に行くのによく利用してきたルートが、最近ではよく渋滞するようになったため、Googleマップを参照して昨日はルートを変更してみたのですが、随所で工事渋滞にひっかかってしまっていささか失敗でした。うーむ。次の週末、楽器を受け取りに行く時にはどこを通って行こうかな?

 ドライブルートの検討のため地図を眺めていて、20年近く前フリーターやってた頃をふと思い出しました。住宅地図の調査で街を歩き回る仕事をしていた時の事。

 その日、バイト先の会社から割り当てられたのは、名古屋市内のとある高級住宅街でした。新聞やTVでは「バブル崩壊」なんて言葉が飛び交っていた時期でしたが、ホントの『セレブ』の方々はそんなのには動じないのでしょうかね?これ見よがしに扉を開け放った車庫にはフェラーリが2台納まっていて更にもう1台分の空きスペースがある、なんてお宅もある街です。
 その『フェラーリ屋敷』から少し歩いたところに、周囲の邸宅とはまたさらに雰囲気が違うというか、別格とも言うべき貫禄のあるお家がありました。

 そのお家を取り囲むコンクリート塀は私が見上げるほどの高さでした(私の身長はちょうど1.7mです。ご参考までに)。その塀より高く、庭木らしい樹木がそびえ立っています。生け垣としては背が高過ぎる、というかむしろ、これほど立派な庭木のある庭が造られ管理されているとしたらこのお家ってどんだけすごいんだ。植木畑がいっぱいあった田舎で育ったので、知識はなくても感覚でわかります。ていうかこんなの見た事ないレベル。

 いかめしい黒い鉄製の門扉の脇のインターホンのボタンを押しました。
「地図の調査で伺っております。こちらの世帯主様のお名前をご確認頂きたいのですが」
「インターホン越しの話ではわかりにくいと思うので、どうぞ中へ入ってきて下さい」
「…はあ」
 気後れするなあ。いかめしい黒い鉄製の門扉の脇の通用口から塀の中へとお邪魔しますと…

 林。原生林、とまでは行かなくても、ほとんど人の手の加わっていない林だと思われる雑木林。表から見えていたあの樹木は庭木ではなく、塀で囲まれたこの区域に自生している樹木なのです。
 林の中にけものみちのような小道があります。それをたどって行くと、林の奥にはこじんまりとした空間が開けている一角があって、そこには小さな平屋の農家風の家と芝生の敷かれたささやかな庭があって、その庭先に一人の老婦人が立って、私を待っていて下さってました。

 そのお家には、そのご婦人が一人でお住まいになっていらっしゃるということでした。
 お名前の漢字が旧字体で、若い者には読み書きできないだろうから直接説明する、というわけで私をお宅の敷地内に招き入れて下さったのでした。実際、説明を受けながら書いてもその方のお名前を正しく書く事が私にはできず、ペンをそのご婦人にお渡ししてお手ずから書いていただいたのです(汗)。調査員失格ですね(^^;;。

 愛知県西端部の農村で育った私にとって、そのご婦人のお住まいは親近感のあるつくりの建物でしたが、その周囲を林で取り囲まれ、さらにその林は高いコンクリート塀で囲まれ、そしてその塀の外は高級住宅街、というシチュエーションには少なからず驚きました。

 それからしばらくしてバイト生活から脱して今の仕事につき、安定した収入が得られるようになって、フリーター時代には遠ざかっていた音楽の趣味も再開しました。
 去る者は日々に疎し。今の仕事に集中するうち、昔のバイト時代の記憶は薄れて行きました。

 …が。

 今日地図を眺めながらいろいろ思い出してたんですが、どうも、コントラバスを持って楽器屋さんへ行くときに、あの「林」のあたりを通っていってるんじゃないかなあ、と思うのです。今は昔と違って車でバーッと通り過ぎてしまうのでよくわからないけど。ていうか、自分の記憶が薄れるのと、町の様子が移り変わるのと、どっちが速いだろう。
 Googleマップで見ててもよくわかりません。あの高い塀と黒い扉を見れば思い出せるだろうと思うのですが、どうもあのあたりはストリートビューでは見られない区域のようで。

 やはり実地に行かなきゃ思い出せないだろうな。いつか近いうちに、あのあたり、歩いてみようかなあ。
 あのご婦人も、お元気でいらっしゃるかな。今も林の奥のあのお住まいで暮らしていらっしゃるのかな…。